日 々 雑 感                                                     

 日常生活の中で見聞きする世の中の出来事や伝聞などから印象に残ったことを,全くの個人的な価値観で判断し評価したことを書き散らしたものです。
 従って,賛同されてもよいし,価値観・文明観・歴史観等の違いから偏見と見なされてもよい,といったものです。
    (2014.8.31)

  
 <下から古い順番で記載します>

005  ゆるきゃら  2015.3.9
  子供のお遊びのような幼稚化の蔓延
 いわゆる「ゆるきゃら」 と呼ばれる人形のようなものを作るのが流行のようである。制作者は主に市町村などの公共団体で,その地域の地域振興とか活性化などを目的にする意図があるようである。 イベントなどでは,縫いぐるみの中に職員が入って動き回っているようで,誠にご苦労なことである。
 熊とかペンギンは見飽きた幼稚園児には受けると思っていたが,いい歳の大人も喜んでいるのには驚くほかない。
 こんなことが地域の活性化に貢献するのかどうか分からないが,冷静に考えれば,ある地域の特色又は魅力と,作られた縫いぐるみは長期的にみて相関性はないと思う。縫いぐるみや動物もどきの人形が,その地域の発展に寄与するものではないだろう。いずれの県・市・町・村であっても一匹の人形に代表される程度の地域なのだろうか?
 このような幼稚な戯れ言がマスメディアに取り上げられ,その関係者が得意げな表情で解説をしている姿は実に幼稚に見える。

 
  ※まるで幼稚園のおままごとの材料だが,れっきとした行政機関のお仕事だそうだ。
 
 004  名前の付け方の異常さ  2014.9.30
  日本語として意味不明の漢字の読み方を主張する名付け親が何故にはびこるのか 一つは大人の幼稚か,なのか。
 もう既にいつからこのようなことになったのか,10年は遙かに超えているのだろう。人名の漢字の読み方の奇妙奇天烈な状況のことである。
 数え上げればきりがないが以下のような例がある。
  「陽菜(
ひな)」  「結愛(ゆあ)」  「心愛(ここあ)」  「愛菜(まな)」  「希星(きらら)」  「来桜(らら)」  「月(あかり)」
  
それぞれの漢字に対して( )のように読むというのが名付け親の主張のようだ。これは,どれも日本語として正しくない。名前は個人のものであっても社会生活上の公的な決まりである。個人の識別として誰もが同じ呼称(読み方)を共有することが必要で,その根拠は日本語としての常識的な範囲に収まっているかどうかである。気でも狂わなければ,とてもじゃないがこんな読み方はできやしない。
 このような呼び方は,他人からすれば馬鹿げたもので,そう呼ばれる子供が哀れになる。
 このような呼称がまかり通っては,太郎を(
ピーター)と読むと言っても同じことであろう。思うに,これらの親達は家族・友人などの狭い範囲で使うときの「あだ名」とか「ニックネーム」が直ちに社会性を持つと思って,馬鹿げた呼称を使っているのだろう。多くの家庭には(ぼくちゃん)と呼ばれた男の子がいたが,幼稚園か小学校に入ってからはそのような愛称は卒業したものだ。結局は,親がいつまでも幼稚なままなのだろう。

  最大の原因は,戸籍法及び住民基本台帳法上,氏名の読み仮名(傍訓)は記載事項に含まれていないということだが,常識を前提にしていたからであろう。しかし現在の世の中では,これをすぐに法制化すると役所の窓口で,非常識な読み方を認めるよう強要する親たちの声で騒然となるに違いない。そして,今の役所も毅然とした態度は期待できないので,収拾が付かなくなることは必定である。
 良識ある日本人としては,例示したような奇妙な読み方には単純に納得しないことくらいしか対抗出来ないのかも知れない。
 例えば,例示の名前は素直に次のように呼んであげるということです。
  「陽菜」 
ようさい 「結愛」 けつあい  「心愛」 しんあい  「愛菜」 あいさい  「希星」 きせい 「来桜」 らいおう 「月」 つき
 
正しい日本語で読めばこうなるが,これが名前かという気がして可愛くとも何ともない。
  更に言ってしまえば,「陽菜」を なっぱ 「結愛」を けつあな と読んでも問題はない。どう呼ぼうが日本語として正しくないことでは同じだから。

 いずれにせよ,名前を付けられた子供には何の責任もない。馬鹿げた名前を付けた親に問題があるだけだ。
  
 003  ピースサイン とやらの不可解な仕草  2014.9.1  
  意味不明な仕草をするのは,幼稚さのせいか?
 カメラを向けられると顔を向けるのと同じく反射的に指を二本突き出す仕草をとることが当たり前になっている。これを”ピースサイン”と呼ぶらしい。
 ”ピース”とは英語で”平和”の意味らしいが,その映像で平和を訴える場面であれば意味があろうが,なんでもないスナップ写真や集合写真では意味はない筈だ。写真そのものとして,普通に見て邪魔である。美人も台無しである。<1>若い男二人で,この画像に意味があるのか。
<2>はチャーチルの写真であるが,彼は対ドイツ戦争で勇気と英知で英国を救った。これは勝利のVサインそのもので,意味があることを理解出来る。指サインには様々な意味を持たせているので,<3><4>のように無造作に突き出すのは,幼稚さだけでは済まず特に外国においては無防備な仕草となっても仕方がないだろう。
 若い女性が二本指の股を広げて付きだして”平和”を求めても,視覚的にはある特別な”意味”を持っていると理解されても当然だと思われる。
 誰かがやっているからそれを真似するだけの反応は止めたほうがよい。
 




<1>

<2>
 
<3>
 
<4>
  
 002  人の名前のローマ字表記  2014.8.31 
   文化国家としての誇りを持って判断すべき
  名前は””と””に分けられ,どこの国でも表記する順番が決まっている。日本では-の順で,坂本龍馬と表記する。
ここで,これをローマ字で表記するとき,SAKAMOTO RYOMA ではなく ”RYOMA SAKAMOTO”として名-姓の順にしてしまうのが通例のようだ。おそらく英語を使う国のルールに合わせるべきだという発想であろう。しかし,名前は固有のものでたまたま漢字は読めない者の為にローマ字で書くからといって,その国の文化に合わせてしまうのは,ナイーブで,従順というか奴隷の如き感覚ではないだろうか。日本人が外国でI am Ryoma Sakamoto.という言い方しかしないため,彼らは日本人の名前の語順を自分達と同じと最初から決めて疑ってもいない人が多い。そりゃ本人が言うのを疑う材料がないわけです。
逆の例で,外国人の名前を日本語で表記するときに,日本のルールに合わせているかといえば否である。Ronald Reagan氏をレーガン・ロナルド姓-名)と書いた新聞,書籍など見たことがない。また,覚え立ての日本語で”ワタシワ レーガン・ロナルド デス”と言う人はいないし,それを聞いたとしたら我々は奇異な感じを持つだろう。

 ローマ字表記だと姓-名順を誤解されるという心配があるのだったら,せめて名刺など印刷物では次のように表記すればよい。

 SAKAMOTO Ryoma と表記する。この表記を見たときに,多くの外国人は-の順であると理解する。姓を大文字体で表記するルールは広い範囲に及んでいる。
 ※活字のポイントが選べないときにSAKAMOTO Ryoma としてしまうが,くどくスマートではないようだ。

  
 001  リスボンで見た韓国人の卑劣な行為  2014.5.1   現地で確認
  野蛮人は世界に蔓延る
 発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)は、ポルトガル・リスボン市西部ベレン地区のテージョ川岸にある大航海時代を記念した記念碑である。
 ここに16世紀時代の世界地図を,タイル(大理石?)で地面に設置してある。この日本海の位置に,あの身勝手で野蛮な者が落書きをしたのが此処を訪れた世界中の人の目に晒さらされていた。
 あの国民は,この地図の時代のどの国よりも21世紀になっても未開で野蛮で蒙昧のようだ。
 
 ※東京のポルトガル大使館を通じて報せたところ,その後撤去されたとの報告を得た。
 ※しかし,この後で同じような書き込みがされたことを旅行者が報告しているのをネット上で確認した。
   
日本海をSEA of EAST(東海)に竹島をDOKDO(独島)に,マジックインクで落書きされていた。


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